劉備玄徳という人物。
ということで、何はともあれ「三国志演義」の主役たる劉備のことについて語ってまいりましょう。
中山靖王劉勝の子孫を自称する、姓は劉、名は備、字は玄徳というこの人物は、たしかに劉姓を持ってはいましたが、その系譜には疑わしいところがあるようです。
中山(かつて戦国時代の初期に存在し、楽毅が仕えていた国。趙の武霊王によって滅ぼされる)の王だった劉勝は、すごい女好きで子供がたくさんいて、孫も含めると100人を越す子孫がいたそうなので、その家系図は大変多く、途中で途切れたところもあったとのことなので、たとえその子孫ではなくても、そう名乗ることは可能だったわけです。劉備あるいは誰かが、そうあって欲しいと願って靖王の子孫であると名乗っても、当時では疑うのは難しかったでしょう。
いずれにせよこの劉の姓を持つ玄徳。
幼少のころ貧しかったのはたしかなようで、こういった人物の特徴としてだいたい必ず、大言壮語を吐くエピソードがあります。
皇帝の馬車は桑の木で出来ているとのことで、劉備は子供の頃その桑の木を見ながら
「大きくなったら天子の馬車に乗る」と言って親族に怒られたそうな。
「男子に生まれたからには始皇帝のようにならねば」
とか言ったエピソードとかぶるので、創作っぽいイメージはあります。
あるいは、本当に劉勝の血筋で、幼いころからそれを聞かされていて無邪気につぶやいたという可能性もなきにしもあらず。
そんな劉備も中学生くらいの時に、親戚の援助を受けいとこと一緒に、盧植のもとで学問を学ぶことになります。
といっても、盧植はそのときからけっこう偉い地位にいたので、劉備に直接ものを教える時間はなかったみたいです。あっても、数か月くらいでしょう。
劉備は本を読んで勉強するより歌とか踊りとかが好きで、派手な格好をしてよく豪傑と付き合う…という、勤勉実直とはちょっと外れた道を歩んでおり、競馬も好きでこの頃に兄貴分と慕っていた公孫瓚とかと仲良くなったそうな。
そしておそらく、当時から有名人で偉かった公孫瓚と仲が良かったことで、馬商人だった張世平と知り合い、資金面でバックアップをしてもらったと思われます。
そしていよいよ黄巾の乱が勃発し、劉備は手にした資金をもとに義勇軍を結成します。そのなかには、別の県で殺人の罪を犯し逃げてきた関羽などがいました。
はいそうです。
かの有名な「桃園の誓い」は正史にはいっさい登場しないのです。
しかし千金に値する関羽と張飛を義勇軍に加えたことで、劉備軍はじつはめちゃめちゃ強くなりました。あまり知られてないことかもしれませんが、劉備は実際はかなり強く、関羽や張飛の陰に隠れてるだけでかなりの実力者です。
特に長い間少ない兵士で戦っていたためか、ゲリラ戦法のようなものが得意でしたが、のちのちのことを振り返ると、それに反して大軍を指揮する能力には恵まれなかったのでしょう。
劉備は世の中にはびこるイメージからすると、ひとを魅了する能力に特化しているように思われがちです。手が長く、耳が長いという変わった風貌をしていたのもそれを後押ししたのかもしれません。
たしかに無口で表情をあまり表に出さないタイプだったようですが、心の内側には滾る想いを秘めており、実際のところはかなりの激情家であったと思われます。
劉備の生涯を通じて見てみると、彼はけっこう皇帝となった劉邦を敬い、彼のような生き方を真似してたりしていたのではないかと思われます。と同時に、老荘思想のようなものを持っていて、
持つ者は滅び、持たざる者が永らえる
という価値観のもと行動していたのではないでしょうか。
とにかく彼はいろんなものを棄ててこの戦国時代を生き抜いています。どこかの官職に就いても、だいたい官を棄てて逃げてますし、付き従う関羽や張飛などもみなずっと放浪暮らしみたいなものでした。
劉備が「持つこと=しがみつく」ということに固執しすぎると滅びる、と考えて、物事に固執しないという思想を持っていたと考えれば、何かあればすぐに逃げた、という彼の遍歴にも納得がいくというものです。
ともあれ劉備は挙兵し、手柄を立ててちょっと偉くなりました。
ここで正義のエピソードとしてあげられたのが
「悪代官を縛り上げて100叩きの刑に処し、木に吊るして官位を棄て逃げた」
というやつです。およそ人徳の人と呼ばれた劉備からかけ離れた行動ですが、彼が本当は激情家だったことを考えればすんなり受け入れられます。
それにしても、よっぽど腹の立つことをされたのでしょうね。
劉備はそれからも転戦し、その後に仲の良かった公孫瓚のもとに身を寄せます。
趙雲と出会ったのもこの頃です。劉備は趙雲とすごく意気投合したみたいですが、彼はたいへん義理堅い人物でしたので、公孫瓚のお世話になっている間は劉備のもとに行けないと告げ、劉備もそれを受け入れました。
劉備は「棄てる」を行動理念としているためか、その後も多くの人物を得られませんでした。もちろん彼に付き従ってくれる多くの人材も得ましたが、土地を持たない流浪の軍はなかなか安定した生活を送れないものです。のちに出会う徐庶もまた、荊州から逃げる劉備には付き従えませんでした。
ともあれ公孫瓚のもとで勇躍した劉備は、当時かなりの勢力を持ちはじめていた袁紹と対立します。ゲームとかで「平原の覇者」とかありましたけど、この頃の劉備は平原の太守みたいなことをしています。
しかし、曹操・袁紹同盟VS公孫瓚・袁術同盟+劉備の戦いで敗れ、曹操が父を殺された復讐で徐州に攻め込んだころ、徐州の太守だった陶謙に助けて欲しいと呼ばれ、平原をあっさり棄てて徐州に向かっています。不利を悟ったんですかね。
その後、陶謙に徐州の太守を継いでほしいと言われ、おそらく本気で後継にはなりたくなかったんで断った劉備ですが、いろいろ諭され結局は徐州の太守になっています。曹操と戦いたくなかっただろうに大変だ。
さてその曹操はといえば、呂布に攻められ徐州どころじゃなくなってたので劉備はきっと心底ほっとしたでしょう。が、ほどなくして呂布が曹操に負け、徐州にやってきました。
いろいろと噂のあった呂布ですが、さすがの劉備も断れなかったのは言うまでもありません。ある意味で、呂布は恩人でありまた、曹操に対抗できるかもしれない味方なのですから。
しかしそれもしばらくのこと。
昔の盟主だった袁術が「下っ端だった劉備が徐州を治めてるなら奪ってしまえ」とばかりに攻め込んできて、これと対峙しているときに、あっさり呂布に裏切られ妻子を人質に取られます。
さすがにこのときは袁術と呂布に挟まれて逃げることもできないほどヤバかったのでしょう。ただこのときは、徐州に逃げてきたとき助けてやった恩があるということを武器に、見事呂布と和解して窮地を脱します。
とはいえその後また呂布に攻められるのですが、そのときは袁術もいなかったのであっさりと逃げ、劉備は今度は曹操のもとに身を寄せます。
彼のような掴みどころのない、いつも逃げながらも滅びることなく生き続けている不思議な人物を、人材大好きな曹操さんは興味深く、かつ不可解なものとして見ていたようです。
「いま天下を競うことが出来るのは、私と君だけだ。本初(袁紹)では不足だよ」
ということも、実際に言っていたらしいですが果たして。
まあそれほど厚遇されていた劉備なのですが、献帝を擁し、劉備に代わって徐州を支配していた呂布を打ち破り、政権基盤を着々と固める曹操陣営の中で、これを危険視する皇帝派の暗殺計画に関わることになり、これまたヤバいと曹操のもとから逃げる算段をします。
関わりたくなかったのに同じ劉姓である皇帝からのたってのお願いということで断り切れず、やる気はないけれど関わってしまった以上、露見すれば曹操に粛清されることは間違いりません。そんなことするつもりはなかったなどという言い訳で避けることは不可能です。
そんなわけで、曹操に勝てないとわかっている劉備は、やがて袁術が動き出したことをいいことにその討伐を志願し、見事に曹操(というか反曹操の皇帝派)のもとから逃げ出したのでした。
そして袁術撃退後、劉備は徐州に残ります。そのとき曹操軍の武将を斬っているので曹操と敵対することにはなりましたが、曹操に勝てないし恩もある劉備はまた逃げる算段をしていたことでしょう。
しかし当時、河北を制し曹操と対立方向に進んでいた袁紹と手を結んだ劉備は、それから曹操軍と戦ったようです。
曹操軍を蹴散らし、
「お前らが束になってかかってきても私には敵わん。曹公を連れてこい」
とか言ったとかどうとか。
それから曹操が出陣し、夏侯惇や夏侯淵でも劉備には勝てなかったようですが、曹操本人がやってくると劉備は一目散に逃げたそうです。
このあたりは複雑な感情があったようで、劉備は生涯において、曹操本人が率いる部隊とは決して戦わなかったといいます。曹操のもとにいたとき受けた恩をずっと忘れなかったということでしょう。
彼らはその後も敵同士でしたが、奇妙な友情めいたものを感じます。
しかしまあ、劉備はまた逃げました。
このように何もかも「棄てて」生きる劉備ですが、その生き方に美学というか魅力があったのでしょう。関羽も曹操のもとに降ることはありませんでした。
さて、袁紹のもとに行った劉備ですが、いよいよ官渡の戦いに至ったとき、ゲリラ戦が得意なので曹操軍の裏手に回り後方かく乱のようなことをして回ってました。
互いに行方不明で音信不通だった関羽も、劉備が袁紹のもとで戦っていると知ると戻ってきていたようで、それからの劉備軍は夏侯惇や夏侯淵よりも遥かに成長していた曹仁に負けたりしてますが、かなり善戦しています。
が、歴史にあるように袁紹が負けると、曹操には敵わないとまたさっさと逃げ出し今度は南の劉表のもとに身を寄せます。
ほんと書いてると逃げてばっかの人生だな劉備(笑)
劉表のもとでは、もはや中原で絶対の勢力となった曹操を防ぐため、その最前線である新野に配属された劉備。
やっぱり攻め寄せてくる夏侯惇とかは撃退し、いつの間にか反曹操勢力の切り札みたいに思われて人が集まってきます。
しかしまあ、劉表が内政向きの性格だったためか激しい戦闘が続くでもなかったようで、そんな劉備にはこんなエピソードがありました。
あるとき宴会でトイレから帰ってきた劉備。
なぜか泣いているので劉表が理由を聞くと、
「私は若いころから馬に乗っていて身体が引き締まり、脾(もも)に肉もついていませんでした。しかし近頃は馬に乗ることもなく肉がついて、年も取って何の功績もあげていませんので悲しくなったのです」
と、答えたといいます。
『髀肉之嘆』
という故事成句が生まれたこのエピソードですが、本当にあったならどちらかというと劉表へ向けた「皮肉の嘆」に聞こえます。
「こりゃ王朝も先が長くないな。勢力争いに巻き込まれんよう地方に出てそこで自分の王国でもつくってやろう」
みたいなことを考え外に飛び出した群雄のひとりがこの劉表です。
彼は思惑通り荊州の支配者となりましたが、天下を争うまでの野望はなく、曹操が袁紹亡き後の河北を平定するため自ら軍勢を率いて出たので、劉備は首都の許昌を奇襲するよう進言しましたが、彼はそれを受け入れませんでした。
「馬に乗ることもなく脾肉がついて、年も取って天下も争わず、君は男として悲しくないのか」
というようなことを、劉備は劉表に言いたかったのかもしれません。
ともあれそんなこんなしているうちに、かの有名な「三顧の礼」の時期がやってまいりました。
桃園の誓いもなかったじゃん、三顧の礼もなかったんじゃ?
と思われますが、果たしてその通り、この三顧の礼も異論が多々あるようです。
そもそもなぜこの三顧の礼が有名かというと、諸葛亮が蜀で魏を討伐するために皇帝である劉禅に告げた
「出師之表」
というものがあるからです。ここで彼は劉備に三顧の礼があると述べたので、それがあったと誰もが思い、三国志演義でおおいにそれが誇張されて定着した、というのが流れのようです。
が、当時は一介の書生にすぎなかった諸葛亮が、どのようにして劉備の目に留まったのでしょうか。
ここでは詳細は省きますが、実際は諸葛亮のほうが、名を高め人を集めていた劉備のもとへと出向き、そこで知識の一端をひけらかすも興味を持たれず、その後なにかの折に劉備がそのことを思い出し、対曹操で苦慮していた当時の劉備が、何か打開策でも思いつくかも、と諸葛亮を訪ねた…こんな説もあるそうです。
君主というのは多忙です。人材大好き曹操でさえ、自ら足を運んで誰かを迎えに行くというエピソードはなかなか聞きません。
三顧の礼…いままで「棄てて」いるばかりの劉備が急にそんなことをするのか、たしかに疑問ではあります。
しかし、経緯はともあれ諸葛亮は仲間になりました。
天下三分の計を説かれ、その後の諸葛亮の働きに劉備は魚が水を得た状態になったことは間違いなく、このあたりから思想に揺らぎというか、変化があらわれてきたように思います。
年を取ると考えというものは変わってきます。劉備も変わっていきました。
そして、のちのちのことを考えると関羽もまた…。
が、そうこうしているうちに劉表が亡くなってしまいます。
あいかわらずのお家騒動で、跡を継いだのは長男の劉琦ではなく劉琮。
劉備は激怒しますが、どうしようもありません。劉表が亡くなったと聞いて曹操は軍勢を荊州に向かわせています。時間がないのでまた逃げるほかありません。
諸葛亮に劉琮を倒して荊州を乗っ取るようすすめられますが、常に逃げてきた男はここでも逃げることを選択しました。
いままでは何もかも「棄てて」逃げてきた劉備。
しかし今回は大量の民がついてきてしまってます。
きっとかつての劉備ならそのまま逃走したことでしょう。が、おそらく諸葛亮などから天下三分のための心得を説かれていたと思います。
彼は珍しく、
「国の基本は民である。その民を見捨てて行くことはできない」
と言って、住民を見捨てて先行し、どこかの城を占拠して対抗するという方法を取りませんでした。
そのためか劉備軍は曹操軍に追いつかれボロボロ。妻子とも離れ離れになり、殿軍を張飛が務めている間に関羽の軍と合流し、何とか劉琦のいる江夏へ落ち延びます。
このとき、公孫瓚が滅びたあとで劉備と再会した趙雲が、敵軍の中を駆け抜け劉備の子供、阿斗(のちの劉禅)を助けています。
まあそんなわけで惨敗の劉備軍、このままでは大変ヤバい状況です。
そんなとき救いの天使としてあらわれたのが呉の魯粛でした。
彼は劉備たちと語らい、すっかりその近況に肩入れしたようで、義侠心の強い魯粛はすっかり親劉備派となり、このあともずっと劉備を手助けしてくれます。
もとより曹操に対抗できるのは孫権しかいないと思っていた諸葛亮は、呉と同盟を結ぶべく魯粛と一緒に呉に赴きます。
このあたりから、諸葛亮の呉での大活躍がはじまるわけですが…。
何となく察しがつくように、諸葛亮はほとんど何もしません。むしろ、自分の存在を隠すようにさえしています。
背後に遠大な計画がある(天下三分)ことを悟られないよう、彼は細心の注意を払って孫権と向き合うのです。
単純に言えば、彼はごく普通に孫権を説得しただけでした。
「我ら劉備軍は後漢をないがしろにする曹操に、ごくわずかな兵でも立ち向かおうとしています。
それに比べて呉は、国も広く兵士も強く人材も豊富です。
曹操にも決して負けないと私は思いますが、多くの方は彼のことを恐れてるんですよね?
それなら劉琮のように早々に降伏するのが良いでしょう。
そうすれば呉は魏の下でのんびり暮らせます。みなさんも安心ですよね?」
みたいな、相手をちょっと貶めてその自尊心を刺激する説得を行います。
ここで登場するのが、呉でも最高の武将である周瑜、字は公瑾です。
演義では完全に諸葛亮の噛ませ役になっている彼ですが、諸葛亮の言うことなど歯牙にもかけず、もともと曹操に勝つつもりで孫権に話をしにやってきてます。
自信満々で曹操に勝てると言い放つ周瑜に、じつは降伏しようかという話も出ていた呉の重臣たちは押し黙り、それ以降は諸葛亮も何をするでもなく、目的は達せられたので静かにしています。
かくして、世に有名な「赤壁の戦い」が開始されるわけです。
正史では魏が歴史の勝者ですので、この戦いを赤壁の対岸にある、烏林の戦いとしています。
そして衝撃の事実ですが、この烏林の戦いにおいて劉備軍は何もしておりません!
劉備も諸葛亮も、ごく少数の兵力しか保持してませんから、そもそも戦える状態ではないのです。むしろ兵力は一人でも温存したい。
そんなわけで、劉備軍は江夏からちょっと南下して、「同盟軍として参加するつもりだよ」くらいの位置に移動するだけ。
それから劉備軍は動きませんでした。
周瑜はそもそも呉軍だけで勝つつもりだったので、劉備など眼中にないのですが、烏林の勝利後に曹操を取り逃したとき、劉備軍がもっと烏林に向かってくれていれば曹操を捕まえることができたのに、と思ったりもして、その狡賢いやり口をすごく嫌悪してたようで、勝利のお祝いに駆けつけた劉備のへりくだった姿を見て余計に腹を立て、けっこう悪辣な言葉を投げつけたりしてたようです。
しかしこのあたり、上手く諸葛亮が立ち回っていました。
自分たちの本当の目的を悟らせず、周瑜にこちらを侮らせること。たいした奴らではないと思わせること。これに成功しています。
呉軍は水軍が強いのですが、陸での戦いはいまいちでした。
せっかく烏林で勝利したのに、いま一歩荊北を制圧できません。
「公瑾殿がお忙しいようですので、魏軍が去って動揺している荊南の諸侯を説き伏せてきましょうか?」
この劉備の言葉に、彼の顔も見たくないと嫌悪していた周瑜はつい頷いてしまいます。劉備は曹操のもとを去るときとかもそうですが、言葉巧みに逃げ出す口実をつくりだすのが大変得意ですね。
それはともかく、周瑜の許可を得た劉備はさっそく南に拠点を構えました。
のちに公安と呼ばれるその地は、劉備が拠点としたことで一気に大きくなったそうです。荊南の四州も瞬く間に支配下に置き、周瑜が北を向いている間に劉備軍は一大勢力を築き上げました。
いままでずっと誰かから譲られたり、借りたり、一時的に任されるだけで決して自分だけの力で勝ち取ることがなかった「土地」を保有し、いままでにない充実感のなかで肥大化する陣営を、劉備は不思議な思いで見つめていたことでしょう。
ずっと「棄てて」きて生き延びてきた劉備ですが、もはや老年にも近い年齢。死ぬまでそう遠くないということを実感する年です。
それが、諸葛亮を得ることでいま大きく変化を迎え、彼は彼だけの力で国と呼んで差し支えないものを手にしたのです。きっとこのあたりから、劉備は執着するということを覚えはじめたのでしょう。執着は滅びへの道と知っていたはずなのに…。
さて、そうして劉備が力をつけていることに気づいた周瑜は臍を噛み、おのれの失策を呪いながら撤退することになりました。劉備の勢力が無視できなくなったからです。
そして彼は失意の中で早逝しました。周瑜の脳裏には荊州を制圧後、蜀をも征服する計画が練ってあり、臨終間際に孫権にその思いを託します。
勢力が大きくなった劉備に、孫権が弓腰姫と呼ばれる妹を娶らせ、一緒に蜀を攻めようと提案したのもそうした流れで、また劉備の野望を知るためにもその申し出を行ったのですが、周瑜が懸念した通りに劉備はその話を断り、蜀を自ら奪い取る姿勢を示したために、孫権の妹とのあいだに騒動が巻き起こります。さらには呉との関係も悪くなってしまいました。
いっぽうで、当時の蜀の支配者である劉璋は、蜀の北にある漢中を根城にした怪しげな宗教団体に手を焼いていました。
悩んでいた劉璋は、ここに来てにわかに勢力を増した劉備のことを聞きつけ、
「あの曹操と渡り合った英雄で、同じ劉の姓を持つ同族なら助けてくれるかも」
と、まさに劉備にとって渡りに船の援助を求めてきます。
蜀の内部にも、このまま劉璋が治めてたんじゃこの蜀はおしまいだと考える派閥がいて、そういったひとたちの手助けも得て、劉備は入蜀します。
劉璋に歓迎された劉備。このとき、龐統に劉璋を捕まえて一気に事を成し遂げましょうとすすめられますが、これも劉備は断っています。いまはまだ早いと。
このあたり、人心を掴むということを意識してます。
そしてさり気なく伏龍と鳳雛と呼ばれた諸葛亮と龐統も部下にいますが、やっぱり龐統は劉備のもとにやってきたのであって、劉備が会いに行ったわけではありません。諸葛亮の三顧の礼の真相が揺らぐ…。
ともあれ張魯討伐のため、劉璋から兵を借り受けた劉備。北に向かって進軍しますが張魯をやっつけるつもりはなく、人民の心を掴むことを重視して蜀の乗っ取りを画策しはじめます。どこが人徳のひとやねん(笑)
「呉を助けるために軍隊を動かします」
と口実を設けて、怪しまれることなく群を動かし、さり気なく蜀の首都である成都に向けて侵略を開始します。
いろいろ抵抗はありましたが、当時、曹操に負けて張魯のもとにいた馬超が配下に加えて欲しいと願い出ており、この馬超を迎え入れ、その名声を利用して「益州を取ったぞ」と言ったそうですが、それというのも馬超の名前は蜀にも知れ渡っていたからです。
劉備のもとに馬超も加わったと知った劉璋は、そんな有名人まで劉備に味方するのか…となってしまって、これ以上国民を苦しめたくないという理由で降伏を申し出ます。こうして劉備は蜀を手に入れました。
さすがの人徳ですね(笑)
というように、別に劉備のことを貶めるわけではありませんが、決して彼は人徳特化の人物ではなかったということです。
特に諸葛亮と出会ってから、劉備はある意味ではごくまっとうな思考を持った常識的な君主になってきており、後半生では「棄てる」ことをやめています。謀略によって土地を奪い、人気を取って人心を掴んでいってます。
よく言うならわかりやすくなった、悪く言えば凡俗と化した、と言えなくもありません。国を治める人物というのは癖があって扱いにくい人物よりも、国民にわかりやすい人物のほうが都合がよかったのかもしれません。
ともあれ蜀の主となった劉備は、三国の一勢力を担うほどに成長しました。
しかし、これを警戒したのが孫権です。もともと、孫権は周瑜の遺志を継ぐほどの野心家ではありませんでしたが、それでも執着の強い人物で、あまり書物を読まなかった呂蒙にしつこく読書をすすめたりするような、結果的には上手くいきましたがそういう執拗な面がある人物でした。
その孫権から見れば、荊州の獲得は孫呉の力に依るものであり、当時のいきさつはあったにせよ、荊州はあくまで劉備に貸し与えたものにすぎないという認識があったのです。
劉備はこれに、
「涼州が手に入ったら返すね」
と返事します(笑)
これに怒った孫権。そりゃまあ当然ですが、蜀と呉の争いに発展します。
荊州の東西を分けて、西を蜀、東を呉が支配することで和解します。
踵を返して漢中攻略に出かける劉備は、ここで曹操軍と長い間攻防を繰り返し、夏侯淵を斬り、曹操自身とも戦い、ついには漢中をその手にすることになるのですが…。
結果的に、関羽が荊州を守り劉備が漢中を獲得することで蜀は最大の版図を得ることになるものの、それからじわじわと衰退することになります。
劉備はここで、曹操が魏王となったことから、漢中王を名乗ります。自称ということなのですが、曹操に対抗したということでしょう。このあたりからもう、すごく平凡な没落へと進んでいくのがわかります。
古来より、権力を自称する輩に勝者は存在しません。
そもそも劉備は後漢王朝の再興をスローガンに掲げていたはずです。王を自称するくらいなら素直に曹操の魏王就任を、皇帝をないがしろにする行為だと非難し、このままでは漢王朝は曹操に滅ぼされるとでも言えばいいのです。
案の定、まるでそれが不幸のはじまりとでも言わんばかりに、漢中王を自称した劉備を不快に感じた孫権が呂蒙を使って荊州を攻めさせ、ついに捕えられた関羽は斬首という運命を辿ります。
その後、あとを追うように曹操が死んだので、三国志演義ではそれを関羽の呪いだとかいう演出で飾りましたが、呪いというなら真っ先に孫権と呂蒙が死ぬのでは…。
ともあれ、曹操が死んだことを劉備はすごく悲しんだと思います。跡を継いだ曹丕に弔問の使者を送りますが、いまさら仲良くしたいつもりかと曹丕にはねつけられます。このあたりの友情めいた関係は、戦乱が三国に収束し、激動の時代のあとに生まれた曹丕の世代には通じなかったのかもしれません。
そういった感傷をよそに、曹操が死んでまもなく、曹丕が献帝より禅譲を受け、皇帝になるという暴挙をやらかします。
残念ながら、漢王朝はここで終わりです。
これに対抗して翌年、劉備は漢の皇帝として戴冠するのですが…。
もうこのあたりから劉備および蜀漢は滅亡を免れない運命にあったと私は思います。本当に漢を再興したいなら皇帝にはならず、皇帝となった曹丕を天命に逆らった悪者にしてしまえば良かったのです。
晩年になり、思いもかけず大国の主となって、若き日々に思い描いた信念を忘れてしまったのでしょうか。晩節を汚す、とまで言うのは酷ですが、劉備は決して皇帝にならず、漢再興の忠臣として呉と手を組み、魏に対抗すべきだったと思います。
その劉備がさらに残念な行動を取ったのが、皇帝になってから関羽の敵討ちを理由に呉を攻めたことです。関羽が殺された怒りをぶつけるにはちょっと時間が経ちすぎているので、いかにも口実にすぎず、復讐は中華の人々の基本理念とはいえ、大義があるようには思えませんでした。
蜀皇帝になるときは、皇帝になってくれという臣下の話を断り、それからも何度も説得されて、国民と臣下がそれで喜ぶなら…とばかりに、しぶしぶ皇帝となった美談を語っていますが、これ禅譲のときのお決まりのテンプレ儀式ですし、曹丕も同じことやってます。
そんな美談のエピソードがあり、部下の言葉に耳を傾けるはずの劉備が、こと関羽の敵討ちを名目とした呉との戦いでは、質実剛健な趙雲に止められたにも関わらず、今度は部下の静止も聞かず自分の意思を押し通して自ら出陣するというちぐはぐさ。
結果、劉備は自分自身と張飛の命と数多くの蜀兵を犠牲に、この夷陵の戦いで敗北します。
劉備はゲリラ戦は得意でしたが大軍を指揮する能力はあまりなかったようで、大軍をゲリラ戦のように使おうとしたところ、それを陸遜に分断され各個撃破され大敗を喫しています。蜀滅亡の遠因は劉備のこの戦いにあると言っても過言ではないかもしれません。
最期に逃げ込んだ白帝城で、劉備は自分の命が尽きるのを感じ、子供たちと諸葛亮を呼びます。
ここで語ったのは、死の間際でようやく執着を棄てた劉備らしい言葉でした。
諸葛亮に対しては、
「君は魏帝(曹丕)の10倍も才能があるからしっかり国を安定させてくれるだろう。我が子が皇帝の才能があるようなら補佐して欲しいが、その才能がなければ君が国を治めてくれ」
「馬謖は自分の才能以上のことを口にする。彼に大事を任せてはいけない。それを忘れないように」
と、まるで漢の高祖である劉邦のようなことを言い、子供達には、
「悪事はどんな小さなことでもしたらいけない、善行はどんな小さなことでもやりなさい。お前たちの父親はそうした徳が薄く、これを見習ってはダメだ。本を読んでよく勉強しなさい。これからは丞相(諸葛亮)を父と思って仕えなさい。これらを怠ったら、お前たちは親不孝の子だぞ」
と言い残しています。
劉備は、三国時代を通じてそのもっとも激しい群雄割拠の時代を滅びることなく生き延びた数少ない英雄です。ここでは簡単に「棄てる」と言ってきましたが、この時代にあってそれを実行できるということがそもそもの奇跡であり、そこに魅力を感じた人々が劉備を盛り立てていったのでしょう。
そうした人たちは、世にいうアウトローであったり、アンダーグラウンドを生きてきた人たちであったかもしれません。正道を進むことが出来なかった人々が、曹操とは別の道を歩んでいる劉備という灯に導かれ、それらの人々は行きつく先を求めてあえぎつつ放浪し、諸葛亮という船頭を得てようやく彼らは蜀という安住の地にたどり着いたのかもしれません。
いや、蜀という地を何としても得て、安住の地としたかったのか…。
年齢を重ねて時間がなかった劉備は、いろいろと焦ってしまったのかもしれません。
そしてこの群雄割拠の時代で、彼ほど多くの群雄のもとに身を寄せ、誰からも害されず生きてきた人物を私は知りません。そもそも公孫瓚→その敵の袁紹→その敵の曹操→劉表と、ざっくり大物並べても、敵として戦った相手のところに逃げ込んでよく無事だったなあと感心します。
特に曹操との邂逅はお互いにすごく運命的なものを感じたはずです。
曹操は、それでもなお決して諦めない心を宿した劉備を知っていました。
「私はこれ以上を望まない」
と言って漢中を奪い返すのを諦めたそうです。
劉備が本気で漢中を守った以上、これをまた取り戻しても、劉備は決して諦めないだろうことを曹操は想ったのかもしれませんね。
その後、曹操はこれといって大きく領土を広げることなく、皇帝の位を息子みたいに簒奪するでもなく、まるで劉備が漢中王になって自分と同格の地位に登りつめたのを見届けてから死んだような気さえしています。
劉備玄徳という人物は、このような感じのひとだったのかな、と私は思います。