三国志までのおおざっぱな中国の歴史。
中国の歴史は長く、ついでに諸説ありすぎてよーわからん、人物とか流れが複雑でよーわからん、というのが私の所感です。ちょいちょい調べたりしますが、いまだに全然覚えきれないので、覚え書きの体でここに書いておきます。
ちなみに、神話あたりからずっと諸説多すぎるので、自分の中ですっきりと納得できる部分だけで構成してますので、異論は認める。
神話から歴代王朝
中華創世 → 三皇五帝の時代 → 夏(初の王朝) → 商(殷) → 周 → 春秋時代 → 戦国時代 → 秦(始皇帝) → 楚漢戦争 → 前漢 → 新 → 後漢 → 三国時代(三国志) → 晋
こんな流れですね。
それぞれの時代の大まかな内容と、諸説あるので独断と偏見で決めた時代の区切りは以下の通りです。
『中華創世』
女媧とかいう女神が出てくる時代。まあ結局よくある世界創造の話だと思ってくれれば…。
『三皇五帝』
昔のめっちゃ偉い人が治めてた時代。ほぼ神様。聖人とか。この時代の終わりもはっきりしない。
五帝に入るこのあたりの人の話が時代の終わりで、「舜」のあとを引き継いだ「禹」がはじめての王朝をつくった。
『夏王朝』
五帝の時代は帝位と言っていて、ここから初の王朝なので王位になるとおもうけれど、やはりよくわからない。
初代王は「禹」で、「禹」が死んでその子供が王位を受け継ぎ、これが「初の世襲」になったとのこと。
およそ300年夏王朝は続き、だいたい後半にお決まりの王の堕落を経て衰弱していく。
最後の王は「傑」で、この人は人徳がなく、何事も武力で解決するような性格だったらしい。このあたり、王朝を終焉に導く人物は共通点がある。
料理人であった「伊尹」が敵の軍師になって滅ぼされたというマジ伝説みたいな伝説がある。
『商(殷)王朝』
はじめて甲骨文字を開発したと言われていた王朝。
初代王は「湯」で、中国では成功することを「成湯」と言ったなど、とにかく逸話が多い。また小ネタですが、この商の民は、夏を打倒する際に、蘇という国を滅ぼしちゃってます。後にこの蘇氏から、商を滅亡に追い込む蘇妲己が現れるという…何とも歴史の不思議が詰まってる王朝です。
「戦車をつくった偉大な技術人」
馬にひかせる車ですね。屋根のない馬車みたいな感じ。昔は車輪をまわす技術がなかったので、この戦車の登場で一気に機動性と破壊力が増したそうな。
「商売の語源」
昔ってやっぱり物々交換が基本だったのですが、まあだんだんと交易によって利益が出ることに気づき始めた時代でもあったわけです。後年、周王朝になったころ、「商のような物品のやりとりをする人=商人」ということで、これが商売のはじまりと言われているそうな。
「三顧の礼」
元となる行為はどうやらここにあったようで、商の湯王が、夏王傑のもとを去り、当時ではあり得ない野外の一人暮らしをしていた「伊尹」を迎えるために、何度も彼の家(小屋?)を訪れたというエピソード。
そんなエピソード満載のこの商王朝、実は600年ほど続いています。
しかし、そんな長寿王朝も当然倒れるわけですが…その衰退の原因は、主に時代の流れによるものだったりします。昔はやっぱり迷信とか多くて、王朝というのは基本的には神政国家なわけです。占いとか呪いとかが大真面目にやられてた時代。
でもまあ、時代が進んでくると「ただの迷信じゃんそれ」となってくるわけです。
そうなってくると、王朝はからは占いでお告げがあっただの、呪われるぞなどの迷信を民衆に押しつけ、下はそれをおかしいと思いつつ耐え忍ぶ、こんな図式になります。
不満がたまりますよね。
そういった不満が噴出したのが、商王朝最後の王、封神演義でわりと有名な「殷の紂王」の代なわけです。
封神演義については…長くなるので割愛。
ただ登場人物は著名人なので、小ネタを少々。
「殷の紂王」
有能かつ真面目。この人が王になったら商はもっと栄えるだろうと言われた人物。
問題は、このお方が「真面目すぎた」こと。
なぜなら、商王朝における真面目とは、占いとか迷信とかに真剣に取り組むということだから。
ちなみに紂王の「紂」は「狩り」の意味があるらしく、この狩りというのは獣ではなく当時は人間狩りを指す。商王朝の外にある異民族を狩っては奴隷として連れ帰ることだったので、人々から「人間狩りが好きな王」というあだ名で呼ばれることになった。
そう、紂王というのはあだ名だったのです。
本当の名は「受王」というらしい。
ともあれこの紂王。「酒池肉林」やらの有名な四字熟語を残した暴君として名を残すのですが、当人にしてみれば、だいたいの残虐行為も神に捧げる宗教儀式のつもりだったようで、悪意があったわけではない様子。
本当に真面目に「神権国家」を追求した結果、それをよしとしない新たな勢力の前に屈するかたちとなってしまった、時代の流れが読めなかったために滅んだ王朝といえます。
「妲己」
某漫画では「妲己ちゃん」と呼ばれるグラマラスなお姉ちゃんでしたが、受王の妻として存在した蘇氏の娘。蘇妲己と呼ばれる。
当時の商王朝は、占い国家なので、戦争するのはどこが吉か、偉い女性に占わせたらしい。
つまり、妲己が占い、その結果をもとに戦争を行ったのです。
これが結局、はたから見ると「妲己の思うままに戦争が行われている」と捉えられ、あわれ妲己は一躍悪女のスターダムを駆けのぼってしまう。
「太公望」
「太公」は称号のようなもので、異民族出身で、西姜の一族だったようなので、姓は姜と思われる。呂尚という名前らしいが…この人物もけっこう謎のお方。
のちに斉の国を建国します。
『周王朝』
このあたりから結構ややこしくなってきます。王朝としての名前が残っていることを考えるとたぶん800年くらい続いているっぽいですが、途中で東西に分かれたり、実権がなくなってしまうほど衰退したりしているので、どこで区切るかほんとに諸説ある。
まず、この周王朝から、時代は武の時代へと移っていきます。
いままでが占いとか迷信とかを利用した「精神」の時代なら、ここからは戦争と力でねじ伏せる「肉体」の時代へと変わっていくのです。
初代王は武王(姫発)で、お父さんは有名な文王(姫昌)。
各地に自分たちの親族を送り込み、そこに国を建てさせるという政策で存続を図っていきます。それぞれ国があっても、治めてるのが身内なら大丈夫やろ…と思ったかどうか知らないですが、その思惑があったにせよ、それは当然のことながら世代を重ねるごとに薄れていきます。
エピソード多すぎなので割愛。弱体化して遷都し、ふたり王様がいる時代とかあります。区別するため首都の位置で西周、東周と分けたり。
このあたりから春秋時代と言われたりしてます。
「信長の岐阜改名」
我らが信長様が、斎藤氏の稲葉山城を攻め落とし、その地を岐阜に改名した逸話。
「周王朝が商王朝を倒し、王朝を建てたとき、”岐”山のふもとに首都を置いたことから」
その字を取って、「岐阜」とした説。「阜」は丘という意味らしい。
『春秋時代』
魯という国の「春秋」という書物から、この時代をそう呼んだとのこと。
だいたい周が東西に分かれ、この時代に興った晋という超大国が趙・韓・魏に分裂するまでを言います。
この時代は、武力の時代ながら、まだ戦場での礼儀作法が守られていた時代。
覇者の時代とも呼ばれ、実権を失ってはいたものの、いまだ権威があった「周王室」を支えた国の主が、覇者と呼ばれました。
なので、周王朝の後継者たちはみんな〇〇王、と呼ばれます。まだ王朝あるので。
それを支えた、周王朝の最初に各地に国を建てた親族たちは、みんな〇〇公と呼ばれ王様じゃありません。
覇者もまた諸説あるので、抑えていたらドヤ顔できるのは
「斉の桓公」
中国史上最高の宰相と言われた「管仲」を配下に従えた人。名前は小白。
苦労人だが、けっこう調子に乗りやすいところがあり、管仲に怒られたりしてた。
後継者を定めきれず、桓公の死後、斉は覇者の座を失う。
「晋の文公」
桓公以上の苦労人で、後継者争いにおいて逃亡生活が20年くらい続き、かなり年老いてから即位したのですが、その苦労のおかげか、付き従った部下ともども、みな偉人となって帰ってきた。
親孝行の鏡と呼ばれた兄「申生」や「介士錐」の逸話、配下にのちの趙・韓・魏の礎となる人物を擁するなど、すごい人物。
「斉桓晋文」で覚えておくと、これが覇者の代表や!と胸をはれます。
この春秋時代はおもに北の晋、南の楚が大国で、南北朝時代みたいな感じになっています。他の国は晋側につくか、楚側につくか、外交を駆使しながら生き残りをかけていました。中国史上最高の知識人、子産とか、そういう人物がたくさん出てくる大変興味深い時代です。
『戦国時代』
そして時代はどんどん進み、周王朝の衰退とともに、君主の権威も薄れて、臣下が主を殺して国を乗っ取る、みたいなより殺伐とした時代に変わってきたのがこの戦国時代です。
超大国だった晋が、臣下だった趙氏・韓氏・魏氏によって国が三分され、そこから秦によって中華統一されるまでを戦国時代と呼びます。
有名な孟嘗君や信陵君、平原君に春申君などの戦国四君とかも心くすぐる。
「戦国七雄」
戦国時代に最後まで残った七つの国。七つの大罪とか、七って好きよね。
趙・韓・魏のほか、楚・斉・燕ときて、最終的な勝者の秦を加えて七つですね。
このあたりも偉人が多すぎて割愛。紹介したい人いっぱいいますけど終わらない…。
この時代の前まで、中華の人々は戦車に乗っていました。騎乗するようになるのは、趙の武霊王が胡服騎射を行ったからです。ここから、中華の人々は馬にまたがるようになってきます。
某漫画にもあるように、やがて戦国時代は秦によって終焉を迎えます。
「胡服騎射」
趙の武霊王が行った軍事改革。
当時、中華の貴族は戦車に乗り、服もチャイナドレスみたいな前が開いていない長い服を着ていました。
いっぽうで馬に直接乗るモンゴルの民は、着物のように前が開く、馬に跨ったときに服が邪魔にならないような服を着ていました。
中華の人々は「モンゴル=胡」の人々を異民族とみなしていましたから、「胡服」を見下していたわけですね。
しかし武霊王はその慣習を破り、モンゴルの民のような服=「胡服」を着て、馬に乗って弓を射る=「騎射」を行うことにしたのです。
理由は簡単。そのほうが便利だから。
そんな趙の偉大なる王は死後、「武」の名を贈られます。しかし、晩年の失敗があり彼には「霊」という最悪の名も贈られてしまうのです…。
『秦王朝』
中華ではじめて「皇帝」を名乗った王朝。はじめての皇帝なので「始皇帝」。
その名と王朝は後世にまで大きな影響を与え、秦の発音が中国(チャイナ)の語源だったり、陶器のことだったりするそうです。
「わしは戦国時代を制した偉大な人物。これは王を超える王、王という呼び名じゃとても足りない。新しい呼び方を考えろ」
「では、昔の偉大なる三皇五帝から帝を名乗っては…」
「愚か者め。わしは帝で収まるような器ではない。それなら、三皇の皇、五帝の帝まで合わせて皇帝にするぞ」
ということで、皇帝が誕生した。
秦王朝はとにかく、富国強兵を実現した我らの法律こそが一番という感じで、強引に自分たちの国の法律とかを押しつけていきました。
たしかに秦は、公孫鞅(商鞅)による徹底した法治によって絶対的な強国になり、中華を統一しました。しかし平和になったはずの統一後もその法治がずっと続き、それが行き過ぎて、時間厳守で少しでも過ぎたら自然災害で遅れても、そんな言い訳一切通用せず死罪とかになる有り様でした。
しかし悲しいことなのか、その強引さでいろんなものを秦の色で統一していったので、量りの数字とかもきちっと管理され、商人が物量をごまかして不正に儲けてたりというのがなくなったという側面もあります。
まあそういう一面はあれど、強引に国境を変え、県を定め、皇帝がいるのだからと親族に国を授けるわけでもなかった秦の国は、当然のことながら人々から恨まれ、中央集権すぎて地方での反乱の芽を育てる結果となりました。
さらに、ある日隕石が落ちてきて、落ちた隕石に「秦の国を亡ぼすのは胡である」とかいうお告げが書いてあったので、胡=モンゴル、ということで、自分の長男の扶蘇と、大将軍である蒙恬を北に送り、かの有名な万里の長城を築かせました。
でも結局、秦を滅ぼしたのは始皇帝の末子、胡亥とかいうオチ。
万里の長城にもたくさんの人を駆り出しては酷使して死なせたので、秦はますます嫌われて、反乱はもう誰にも止められないという状況に。
王朝としては15年くらいで終わってる短命の王朝です。
『楚漢戦争』
始皇帝が死んで、秦の国への反乱が始まりました。
陳勝・呉広の乱からスタートした反秦軍は、またたくまに全国に広がり、いろいろあって秦が滅び、残ったのは、このあたりから三国志にも深く関わってくる
とにかくその逸話だけ見ると、呂布も真っ青な中国最強武将「項羽」
とにかくその逸話だけ見ると、天運やばすぎやろ人遣い上手「劉邦」
百勝将軍「項羽」と、百敗将軍「劉邦」の戦いは、戦争が力だけじゃないということを存分に知らしめる不思議な攻防の末、劉邦の勝利で終わりました。
「左遷」
秦を滅ぼした時、一番の功労者は劉邦でした。
自分が一番だと思っている項羽は、この劉邦にどんな褒美を上げればよいのか悩んでいました。普通に考えて、まともに褒美を上げるなら秦のあとに国を治める王は劉邦になるからです。
そんなとき、参謀の范増が言います。
「この首都(咸陽)の西(左)に、漢中という土地があります。首都圏ではありますが、道は険しく、山に囲まれてとても人が住むのにしんどい場所です。この漢中を劉邦に与えましょう。首都圏の土地なので、価値としては首都と同じです。文句は言わせません。きちんと褒美を与えるように見せかけて、劉邦を僻地に追いやりましょう」
「首都咸陽から見て、左に遷(うつ)す。これを左遷と呼びます」
こういうやり取りがあって、劉邦は漢中へ送られました。
その後、劉邦はこの漢中で力を蓄え、東へ撃って出るのですが…左遷の語源の話。
楚漢戦争に勝ってから皇帝になった劉邦が、あるとき(食事中?)言ったそうです。
「わし、戦っても全然項羽に敵わず、どう考えてもやばい奴だった項羽に、どうして勝てたと思う?」
「いえ、わかりません」
「それはな、人を使ったからよ」
「わしは戦っても韓信に勝てんし、悪だくみしても張良に敵わんし、国を治めるの蕭何いたらやることない。どれを比べてもわしは負けてるけど、でも、その三人を上手く使いこなした。
項羽は范増がいたし、鍾離昩とか龍且とかいたけどいつも自分ばかりで、あまり人を信じなかったし、好きにさせなかった。だから負けた」
みたいな話をしたそうな。
他にも漢の礎を築くにあたっていろいろあるけど割愛。
『前漢王朝』
いよいよ漢王朝の時代。たいがいここまで長いので、基本割愛。
劉邦の奥さんである呂稚とかメチャクチャやる悪女だったり、人を知りすぎるがゆえに本当の意味で人を信じきれていなかったっぽい劉邦が、皇帝になってからかなり部下を粛清とかしてるんだけど、よく王朝として長生きしたなと思うけど、武帝の時代に最盛期を迎えるほど栄えました。
『新王朝』
当時の皇帝から皇帝の位を譲られた「王莽」の建てた王朝。
後漢を再興した光武帝劉秀の引き立て役にしかなってないような…。
王莽は外戚といって、早い話が皇帝の嫁さんの親族ということ。これがもう王朝が終わるかどうかはこいつらが権力を笠に着て威張るかどうかで決まるくらい、外戚問題は大きかった。後漢が終わって三国時代になったのもだいたい外戚のせい。
『後漢王朝』
ちなみに前漢・後漢はのちの呼び方です。あいだに王莽の新が入るのでこう呼びます。もっとあとになると別に漢という国が出てくるので、西漢・東漢と呼ぶようになったそうですけど…。
漢王朝は400年くらい続きます。
この人もまあまあ平民みたいな感じの方でした。何しろもうこの時代に劉の姓を持つ人いっぱいいたから、主流の劉家もあれば傍流の劉家もいっぱいあるわけで。
で、上で初代と書いたけど、王莽の新王朝が潰えたあと皇帝になったのは別の人。 更皇帝という劉家の主流の人みたいで、それからいろいろあって劉秀が勝った。
戦の経験もないのに、劉秀は生涯負け戦がなかったらしい。劉邦みたいに天運に恵まれた人や…。
さて、ようやく三国志の時代ですが…。
三国という時代をどこで区切るのかこれも諸説あって、黄巾の乱あたりからなのか、曹丕が後漢皇帝の位を譲られ、後漢が滅んでからなのか、曹丕が皇帝となったあと、劉備と孫権が皇帝になって三皇帝が揃ってからを言うのか…。
どれであってもおかしくはないと思いますが、王朝の滅亡を区切り、と考えると曹丕が皇帝になってからとなるのかなぁ、と思っています。
曹操って三国志の時代の人じゃないんだ!となってしまうのでうーん、という気はしますけどね。
というわけで、駆け足で三国志までの中国の歴史をまとめてみました。
それぞれの時代で活躍した武将の「氏姓」をよく見ておくと、三国志に出てくる武将は「お、こいつ、あいつの子孫じゃない?」みたいに思えるのでより深く三国志を楽しめるのでは、と思います。